標しの石

2005年1月14日
月に一度、春日部の梟おじさんに会いに行く日

向かう電車の中で、どうして私はこの2年半ほど、ここに来ているんだろうとふと思う

春日部という町が好き
どうということのない町(「街」ではない)
駅から梟おじさんのところまでの十数分、お豆腐屋さん、手芸屋さん、お煎餅屋さん、園芸店、八百屋さん、と古い店や家やお蔵がつらつらと商店街とまではいかない程度、絶えない程度に在り、そこを抜けると川にぶつかる。寺を左手に視界が開ける。

草木、花、川沿いの土手、空
季節が明確に感じ取れる

時間の目印を置きに来ているかのよう

東京や横浜の、空の透明度と雲の形と空気の匂いを頼りに季節を計る感覚とは違う。もっと、草木、花、水、空気自体が、どんどん身体にものを言ってくる。

日常では、混乱してくる時間の感覚を、私はここで整え、バランスを回復し、迷子にならないようにしている。

梟おじさんは、わたしの仕事と、日常と、楽しみと、怒りやら悔しさやら、かなしみやら、もっと判然としない混沌も、「ふんふん」聴いているだけなのだ。
同業者だから、仕事に関しての話には、彼も少々感情が動くようで、私の話の中に出てくる管理者に対しては、一言も二言もあるらしい。
それもわたしはそこはかとなく楽しんでいる。

梟おじさんの目に映る「わたし」は、「いいこ」みたいです。
力の入った、優等生な「いいこ」ではなくて、おじいちゃんにとっての孫娘みたいな「いいこ」。
お馬鹿さんなこともこけることも、いっぱいすることも込み込みの「いいこ」。

私は、自分があまり話をしないので、きっと周囲にいる人にとっては「何を考えているか分からない人」なんだと思う。と言うと、「私はあなたの話を聴いていて、とても誠実な人だなあという印象だったよ」と、数年前に別の場所でお会いしていた時のことにふと触れられた。

それは、がんばって格好つけてるところでの話ですよ、と思いながら、嬉しくなくはないのだ。
誰かの目に映る自分というものを、私はあまり安心して目にしたことがないので。

本当に、自分が受け取れるまなざしというものは、そう多くは無く、向けられるまなざしをこころから信じられるということも、貴重なことなのだ。

少しずつ、少しずつ、受け取ることができるようになってきてる。

月1回、そういう小さな標しの石を置きに、ここに来ている。

午後は歯医者。
元旦に、大きく欠けた部分を修復してもらうため
遺伝的にも生活習慣から見ても、歯が致命的に弱いのだ
あああ、歯がなくなっちゃう、歯がなくなっちゃう、どんどん歯がなくなっちゃう(T_T)
引っ張られる唇の痛さもほっぽり我慢していると
歯ができた、歯ができた、歯ができた(;;)よかった
じゃない、先生が作ってくれた。ありがとう。

「いいこ」はもっと歯を大事にすると思う


 

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