疲労の先

2005年7月30日
へとへとだった昨日
職場の同僚からメール
ちょっとしたイベントに使う機材の使い方が分からないから来てもらえないか?と

おいおい、私だって1,2回使ったことはあるものの、誰に教えてもらったわけでもない。テープレコーダーの延長のような代物だ。まじで?
触ってみれば使えるよ。
行けるかどうかは自信がないと伝えるものの、昨日までに新人さんに使い方を伝えていなかった私の手落ちでもある。

責任感があだになる。
当日じゃあ、使えなかった場合の対策も同時に考えておかにゃならんじゃないか。

今朝もまだ使えていないということで結局昼前に家を出る。
職場に着く直前に「大丈夫そうだよー」と間の抜けたメールが来る。
ミニマムぷち切れしながら、差入れがてら出向く。
いついかなる時もエレベーターガールの様に話す新人さんが「おつかれさまですー」と言う態度が「何しにきたの?」と見えてしまうあたりに、今の自分の状態が垣間見えるよう。

(とぼけてんなよ、このやろう!てめーが早いとこ動作確認しとけばこうなってないんだよっ!)

あたしはこの人のやることがことごとく、スタッフ同士に気は使ってもお客さんへの影響を考えてのことと思えないところが大嫌いだ。

よくもこれだけ腹を立てている自分をばかばかしく思わせてくれるやり方をしてくれるもんだ

〜たまりすぎている
引き続き疲れている

ようは、自分が馬鹿にされるのが嫌なだけかもしれない。
自分も似たようなことをするからかもしれない

それでもあたしは自分をばかにしない
お客さんからしたらどうよ
自分がそこにいたら、心地いいか?
自分がそういうサービスを受けたいか?
ちょっとした設備のメンテ
ほんの数分、数十分の居心地
情報の渡され方
ほんの一言
ほんのささいな心遣い
些細だけれど、日々継続されている配慮
自分たちが大切にされているかどうかを、彼らも、私たちも、こんなに多くのところから感じるじゃないか
おんなじだよ
私は自分がもらったことのある配慮の
私が知っている配慮の、ほんの少しでも自分でも実現できたらと思う

現実が見えたとき、突きつけられたとき、人はうつになる
何かを失ったとき
疲れているとき
失敗をしたとき
限界が見えたとき

うつには力がないとなれない
うつになれるということは、現実を知る力があるということ
外界の現実と自分自身の現実を照合し、今自分がどういう状況にあるかを、心身で感じ取っていなければ、うつにはなれない

しっかりうつをやると、人はより賢くなれる
そこから抜けていくには、現実を身と心とで受け入れ、そこからはじめるしかないのだから
そこからはじめられれば、あとはただ歩いていけばいいだけだ
今自分が立っている地面と少なくともそれに続く地面がほんの少しでも見えたということなのだから

霧の中なんて、そんなの誰にとっても同じだ

そうしてそこからまた、人はその人自身になっていく

地面はあるんだよ
あたしはここにいるんだから

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索