あい「間」い
2007年3月15日今日は朝から、主任が窓を開けて換気をする回数が多かった
窓に向かう様子が、いかにも「息苦しい!」と訴えるかに見え
その様子に「そこまで自分を追い込まなくても・・」と思う
仕事のことで話しかけると、窓が開く回数が増えそうなので、今日は少し控える
私が追い詰めているのか、彼女が自分を追い詰めているのか?
なんていう考えが浮かび、これはお互いにちょっと「間」が必要なんだろうとは思う
一方私は、仕事時間をそれ以外のことに使うのは好きじゃないし
自分の緩急は自分で調整する方がよい
他方彼らは、一気集中型にも見え
集中のペース、実行するペースの違いを感じる
一方組織や上の人たちに、逐一反対していったり、こちらの言い分を主張していく一方というやり方が有効とも思えない
数人単位にしろ、現場対経営者にしろ、「集団」で塊をつくるのもうまくはない
「だよねー」という感覚が分からない
結局、「私は?」というところでしか、感じたり考えたりできないので「個」として判断して動く
「組織として動く」ということが、どういうことかを、同僚たちとはまた違う、私なりの感覚でしか理解できない
孤立するか否かよりも、私は自分の「この感覚」から外れて決断したり、行動することの方が怖い
これも、こうやって自分が自分以外の存在を受け入れられていないということなのか、距離が縮まることに抵抗をしているのか
私にとって「必要」なことなのか
と考えはじめ、保留にする
何だか、かなしい
集団になれば個々人の問題がそこに持ち込まれ、ない交ぜになり、
個々の問題が、あっち側に映ったりこっち側に映ったり
拡大されたり縮小されたりして動き、見えはじめる
そうして、全体が大きな生き物の姿になる
その生き物の姿をどこからどういう視点で見て解いていくかは
また一人一人違う
そんなことを思いながら、先週延期になった先輩との約束に向かう
私は「わたし」なりに決めた仕事のしかたを終えてから
直接会うのは、一年ぶりくらいになるか?
昼間、約束の確認にメールを入れると、これまでより遠慮のない言葉遣い
職場を出て、少し遅れると電話したときの声は、疲れた様子だった
飯田橋の駅の近くで拾われ、「ちょっと流す?」と言ってくれ
「寝てていいよ」と言ってくれ
海ほたるに連れて行ってくれた
食事ができる店は、9時前なのに殆ど閉まっていて
海ほたるの先っぽで、黒い海と黒い船と、転々と空港に落ちていく旅客機を見た
渕に連なる灯りをたたえた黒い海にひきこまれた
ぽつぽつと仕事の話をする彼のことばを聴いていた
昔より、ここちよく聴けるようになってきた
それぞれ、話し方も聴き方も変わってるんだなと感じる
神保町まで戻り、暖かいものを食べられるところを探す
文化学院近くの刀削麺を出すお店にする
「ラーメン」は好んで食べないけれど、今日は食べられる
食べ物に拘らなくて済む
食べながら、「この数年で仕事の仕方が変わったと思う」という彼の話を聴いていて大いにうなずく
「結論を出さなくてもいられるようになってきた」と言う
この人、顔つきも「気」の出し方も変わったなあと思う
あれだけの強いエネルギーを持った人が、こういう風になるには、相当な努力を要してきただろうと思う
今日は、これまでで一番一緒に居やすい
やっぱり私は殆ど話さなかったけれど
たまに思うところを伝えると
それを彼が、ゆっくりと聴き、うなずく
こういう風に伝わることばがあり、それで充分と感じる
それが「わたし」で、彼もそれをどうこうしようとはしない
それは、沈黙を消化する彼にも、私にも、互いに手の届く気遣いでできていることに感じる
車の中で、タイヤとエンジンと風の音を聴きながら
海を見ながら
この人と居るとあの「かなしさ」が理解されているように思える
この人はあの「かなしさ」を知ってるような気がする
それをこの人も、分かっているような気がする
この人はそういう人たちを何人も見てきている
それは私だけの感覚かもしれないが
エレベーターで隣に立つ時
車を降りて横に歩く時
昔は、縮められなかった距離が、難なく縮められることが分かる
「一緒に居る」ことができるようになってきている
彼のエネルギーの発し方も、私の受け方も変われている
それで、やはりあの感覚を理解されているように感じる
近くなっている
そうであるといい
私は、この人を大切にしたい
この人が生きやすいといい
この人がホッとする時間を増やせたらうれしい
それは、私が「わたし」以外のものでなくていいということとも
近くなっているのかもしれない
窓に向かう様子が、いかにも「息苦しい!」と訴えるかに見え
その様子に「そこまで自分を追い込まなくても・・」と思う
仕事のことで話しかけると、窓が開く回数が増えそうなので、今日は少し控える
私が追い詰めているのか、彼女が自分を追い詰めているのか?
なんていう考えが浮かび、これはお互いにちょっと「間」が必要なんだろうとは思う
一方私は、仕事時間をそれ以外のことに使うのは好きじゃないし
自分の緩急は自分で調整する方がよい
他方彼らは、一気集中型にも見え
集中のペース、実行するペースの違いを感じる
一方組織や上の人たちに、逐一反対していったり、こちらの言い分を主張していく一方というやり方が有効とも思えない
数人単位にしろ、現場対経営者にしろ、「集団」で塊をつくるのもうまくはない
「だよねー」という感覚が分からない
結局、「私は?」というところでしか、感じたり考えたりできないので「個」として判断して動く
「組織として動く」ということが、どういうことかを、同僚たちとはまた違う、私なりの感覚でしか理解できない
孤立するか否かよりも、私は自分の「この感覚」から外れて決断したり、行動することの方が怖い
これも、こうやって自分が自分以外の存在を受け入れられていないということなのか、距離が縮まることに抵抗をしているのか
私にとって「必要」なことなのか
と考えはじめ、保留にする
何だか、かなしい
集団になれば個々人の問題がそこに持ち込まれ、ない交ぜになり、
個々の問題が、あっち側に映ったりこっち側に映ったり
拡大されたり縮小されたりして動き、見えはじめる
そうして、全体が大きな生き物の姿になる
その生き物の姿をどこからどういう視点で見て解いていくかは
また一人一人違う
そんなことを思いながら、先週延期になった先輩との約束に向かう
私は「わたし」なりに決めた仕事のしかたを終えてから
直接会うのは、一年ぶりくらいになるか?
昼間、約束の確認にメールを入れると、これまでより遠慮のない言葉遣い
職場を出て、少し遅れると電話したときの声は、疲れた様子だった
飯田橋の駅の近くで拾われ、「ちょっと流す?」と言ってくれ
「寝てていいよ」と言ってくれ
海ほたるに連れて行ってくれた
食事ができる店は、9時前なのに殆ど閉まっていて
海ほたるの先っぽで、黒い海と黒い船と、転々と空港に落ちていく旅客機を見た
渕に連なる灯りをたたえた黒い海にひきこまれた
ぽつぽつと仕事の話をする彼のことばを聴いていた
昔より、ここちよく聴けるようになってきた
それぞれ、話し方も聴き方も変わってるんだなと感じる
神保町まで戻り、暖かいものを食べられるところを探す
文化学院近くの刀削麺を出すお店にする
「ラーメン」は好んで食べないけれど、今日は食べられる
食べ物に拘らなくて済む
食べながら、「この数年で仕事の仕方が変わったと思う」という彼の話を聴いていて大いにうなずく
「結論を出さなくてもいられるようになってきた」と言う
この人、顔つきも「気」の出し方も変わったなあと思う
あれだけの強いエネルギーを持った人が、こういう風になるには、相当な努力を要してきただろうと思う
今日は、これまでで一番一緒に居やすい
やっぱり私は殆ど話さなかったけれど
たまに思うところを伝えると
それを彼が、ゆっくりと聴き、うなずく
こういう風に伝わることばがあり、それで充分と感じる
それが「わたし」で、彼もそれをどうこうしようとはしない
それは、沈黙を消化する彼にも、私にも、互いに手の届く気遣いでできていることに感じる
車の中で、タイヤとエンジンと風の音を聴きながら
海を見ながら
この人と居るとあの「かなしさ」が理解されているように思える
この人はあの「かなしさ」を知ってるような気がする
それをこの人も、分かっているような気がする
この人はそういう人たちを何人も見てきている
それは私だけの感覚かもしれないが
エレベーターで隣に立つ時
車を降りて横に歩く時
昔は、縮められなかった距離が、難なく縮められることが分かる
「一緒に居る」ことができるようになってきている
彼のエネルギーの発し方も、私の受け方も変われている
それで、やはりあの感覚を理解されているように感じる
近くなっている
そうであるといい
私は、この人を大切にしたい
この人が生きやすいといい
この人がホッとする時間を増やせたらうれしい
それは、私が「わたし」以外のものでなくていいということとも
近くなっているのかもしれない
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