帰りましょう

2008年10月20日 日常
2日目の朝は夜明け前にマクタン島の宿を出て
真っ赤な朝焼けのなか、高速船でレイテ島へ

スタッフの方に「この後はまともな食事は期待できないので」とおどかされつつ、船内で見事なオレンジ色でコートされたソーセージのホットドックを食べる

カモテス海は思っていたよりずっと広い
地図で見ると手に取るように配置されている島々も、実際に見るとどれも遠く大きく見える
周囲を見回していると、現地のスタッフの方が、島を指差し、名前を教えてくれる

2,3時間してようやくオルモック港を抱える湾に入る
レイテは私が思っていた「島」と言うには巨大に見えた
港は食べ物を売る人でいっぱい。カラフルな乗り合いバスやバイクが行きかい、市を開くような屋根付きの広場が中央にある。周囲を屋台のようなお店が賑やかにひしめいている。

大きな荷物をホテルに置き、車で西北の現場へ
街を抜け、両側に家々、サトウキビや椰子の木の広がる道を通り、緩やかな丘陵とその先の山々に近づいていく。

いくつも小さな町を過ぎ、次第に起伏のある細い道に入り、小さな家の並ぶ村へ入っていく。山々の手前のどん詰まりのようなところにある村まで車で入り、そこから少し開けた田んぼや農地の中を進んで密林へ。
伝え聞き、予想していたよりも暑さは厳しくなかった。けれどそう感じたのは、64年前、この大きな島の中を行軍した日本の将兵さんたちの状況を思っていたせいかもしれない。補給も殆ど無く空腹のまま、武器弾薬、水筒や飯盒をぶらさげ、いつ敵と現地ゲリラの襲撃を受けるか分からない状況で歩き続けていただろう人たちのことを考えると、ミネラルウォーターを入れる鞄一つで、案内をしてくれる人たちにつき歩いて行く今の私たちとはとても比較にならない苦しさがあっただろう。
 現地の方にとっての1時間の道のりは、慣れない者には倍かそれ以上の道のりになるだろうという話だった。湧き水の流れる小川沿いに山に分け入り、次第に傾斜もきつくなっていく。滑りやすい足場も多く、足だけでどこにもつかまらずに歩くことはできなくなっていく。草木や岩場に手をかけ、水の流れる岩場を登っていく。
 途中、年配の参加者の女性がそれ以上登ることが困難となり、その先の道をご主人に託してスタッフの1人とそこにとどまった。その後壮年の頑強な男性の1人の足が崩れ、座り込んでしまう。後から聞いた話だが、その後座っていることもままならなくなり、その場で仰向けになって眠ってしまうほどだったという。その地に残る、ある種の「重荷」をその人たちが負って、残りの数人を頂上まで押し上げ、送ってくれたのかもしれない。
 
 何度も何度も「あともう少し」という声を聞きながら辿りついた山頂は、数十メートルの尾根のように細長いところで、風がよく通り、空が開け、周囲の峰峰がよく見渡せた。ここにいた人は、空の、山々の向こうから友軍機が現われるのを待ち焦がれて、遠く見渡していたのではないかと思えてくる。
 現地の方の行く先に、1メートル四方の穴があり、その中にほぼ1体分のご遺骨がまとめられている。頭蓋骨が崩れずきれいにそのまま残っている。他のお骨もそのまま残っているように見える。ご遺骨はひとつの不発弾だけを抱えていた。あらゆる気持ちに決着をつけてこのピンを抜いたのに、爆発せず、この山頂で空を見上げ、風に吹かれ、木々の音を聞きながら死を待つしかなかったのだろうか。
 登山家の男性が大きく平たい木箱から一束お線香を取り出し、火をつけた。奥さまから慰霊を託されたご主人が、立派なお数珠を手にご遺骨の前にかがんだ。私は念のためにと持ってきた本を取り出し覚えてもいない般若心経を、区切り方も読み方も知らないまま、ただ振り仮名を読み上げた。
 この方に、お線香の香りが届きますよう。私たちの日本語が聞こえますよう。
 本当に長いことお待たせしました。ご家族に代わって、お迎えにあがりました。
 お疲れさまでした。
 ご苦労さまでした。
 いますぐにと行かないのが心苦しいですが、手続きが済めば帰れます。
 もうすぐです。
一緒に日本に帰りましょう。



 
 

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